大府市誌の藤井神社

大府市誌の藤井神社

大府市誌に記載されている藤井神社

大府市誌 第六編 第ニ章 第二節 藤井神社より

藤井神社
横根町惣作二〇番地に所在する。祭神は天照皇大神・須佐之男命・大山祇命の三柱を祀り、相殿の神(後記)として二一柱が鎮座する。
創建の年代は明確でないが、「社伝」によれば、建久二年(一一九一)源頼朝の勧請(かんじょう)といわれる。
建久元年一〇月三日に、頼朝は鎌倉を出発し、鳴海を経て、同月二五日野間で亡父義朝の菩提(ぼだい)を弔(とむら)い、翌二年鎌倉への帰途にこの地へ藤井大明神を勧請したと伝える。
また、一説には、七世紀後半に創建されたもので、頼朝がこれを再建したとも伝えられている。
神社の南二〇〇bの地点には、惣作遺跡があり、出土した土器には、弥生式土器、古墳時代須恵器、奈良時代須恵器、平安瓷器、行基焼がある。
奈良時代から平安時代のものもあって、社伝と時代とが符合している。七世紀後半には、海浜の小村が形成されていたのかもしれない。
明治一九年、地内の字中村から「藤井宮大明神御酒瓶子」と刻まれた鎌倉時代の陶製瓶子(昭和四五年県文化財に指定)が出土した。
お神酒を献ずる器であり、すでに鎌倉時代に一社をなしていたことを証する好資料である。
記録としては、「文安二年正月廿日尾州智多郡横根郷於藤井大明神御宝前蒙十方檀那資助顕大般若経一部云々」と記された延命寺所蔵の「大般若経」第一巻の裏書がある。
その後、五三年を経た、「奉造立藤井大明神社頭一宇干時明応七年卯月日願主当所御代官冨田左京亮家次」の棟札をはじめ、三七枚の棟札がある。
棟札によると、藤井神社の神主として、山口長太夫を代々襲名した社家が、元禄時代から明治期まで百七十余年わたり管理をしており、延命寺の支配下にあった。
古伝に、「往時社内に老藤樹あり脇に古井清水を湛(たた)え神徳顕著なり依って藤井大明神と云う」とある。
藤井神社の社名の起りである。
この泉「藤井の里」の跡地は、今は石垣でかこみ遺跡として保存されている。
明治五年郷社に列せられ、現在の本殿(神明造り)は大正八年一〇月一八日の改築である。
『寛文覚書』に「一、藤井大明神 右大明神ハ大府村、北尾村、大脇村、落合村、追分村、横根村六ヶ村之氏神、毎歳八月朔日に右之村々ヨリ祭礼ニ馬ヲ出ス」とある。
当時は横根郷一帯の氏神であり、祭礼には各村より飾り馬一頭ずつを仕立てて社参し、盛況をきわめた。
現在は山車(市指定文化財)が三台ある。口伝によれば、江州長浜より譲り受けたものといわれるが記録はない。三番叟(そう)とともに、祭礼を盛りあげている。
横根地内には昔から各所に社があった。
明治九年一〇月、すべて境内に移転された。
記録として留(とど)めれば、字石丸の村神社(大国魂命)、字中村の山神社(大山祇命)、字茨廻間の山神社(大山祇命)、字羽根山の冨士社(木花開耶姫命)、字後田の神宮社(倉稲魂命)、字前田の神宮社(猿田彦命)などで、なかでも規模の大きかった字中村から移転した山神社の祭神を明治四〇年五月一九日本社に合祀し、他の六社と従前からの境内社であった八王子社(正哉(まさか)吾勝(あかつか)勝速(ちはや)日天(ひあめの)忍(おし)穂(ほ)耳(みみ)命・天(あめの)穂(ほ)日(ひ)命・天津(あまつ)彦根(ひこね)命・活津(いくつ)彦根命・田(た)心(ごころ)姫命・市(いち)杵(き)嶋(じま)姫命・熊野(くまの)杼樟(くすび)日命・湍(たぎ)津(つ)姫命)・熱田社(熱田七社神・熱田本宮・高蔵宮・八剣宮・大福田宮・日破宮・氷上宮・源太夫神)の祭神を、大正八年八月七日本社の相殿の神としてすべて合祀した。
現在は、境内社として天満宮(祭神菅原道真)と秋葉神社(祭神迦具土神)がある。

社宝
 藤井宮御酒瓶子(県指定文化財) 鎌倉時代
 祭礼用山車(市指定文化財)三台 江戸時代
 鎧・兜 江戸時代
 銅製鏡三面 江戸時代