社叢(しゃそう)・・鎮守の森

社叢(しゃそう)・・鎮守の森

社叢(しゃそう)

難しい字ですが、しゃそうと読みます。意味は鎮守の森のことです。

神社や寺院は森で囲まれていることが多く、特に神社は多くの木々で囲まれています。

寺院もこのような森で囲まれていることもありますが、何本かの大木を伴う建物群が中心の場合が多く見受けられます。

鎮守の森といえば大抵神社を思い起こすのはこのためです。まず、森を伴わない神社はほとんどありません。

いわゆる祠(ほこら)としての独立した構造の場合は、街中で見られ、これらは森を伴わないこともありますが、多くの場合は森をもっています。

藤井神社も大きな森に囲まれています。鳥居から参道まで深々とした森を通り、本殿から社務所に至るまで大きな木々で囲まれています。

遠くから見ますと、こんもりとした森になっています。

どこに藤井神社があるかその森を見ることでわかります。

私は、運動を兼ねてウォーキングにこの藤井神社に来ることがたびたびありますが、結構な距離で少々疲れます。

でも、その森が見えてきますと、ああ、もう少しだな、と元気が出てきます。

さて、神社はなぜ社叢に囲まれていることが多いのでしょうか。

当たり前のように思っていましたが、少し調べてみますとなるほどと理解することができました。

深い森の中に神様が祀られているということは、静寂さと荘厳さが備えられるからです。

昔は山が多く、木々も豊富でしたからその中の適当な場所に神社が作られたわけです。

ですから基本的に神社は森の中にあることになるのです。

しかし徐々に人々が近くに住みつくようになってきますと、木々は伐採され、最小限の社叢として残されているのが現在の姿なのではないでしょうか。

力のある神社は広い社叢を残し、弱い神社はすぐ近くまで伐採されてしまいます。

それでも大抵の神社には社叢、鎮守の森が残されています。

この藤井神社も例外ではありません。立派な木々が茂っています。


社叢の現実

社叢と人家の境は今、色々の問題を抱えるようになってきています。

神社としてもその尊厳を守るためにも大木を昔のまま残しておきたいでしょうし、隣の人家では落ち葉や鳥害で大変です。できれば神社にその木を切ってしまってほしいことでしょう。

先日も実際にあったことですが、カラスが巣を作り、頻繁にかようようになったため危険を感じた近所の方が、神社にカラスの巣をとってほしいと申し入れがありました。

攻撃的になることもありますからカラスに住みつかれるのは確かに危険です。

森の中を一生懸命探してやっと見つけることができましたが、大木のはるか上部ですのでちょつとすぐに取る事は出来ず、業者さんにたのんでとってもらった次第です。

境内の広場には秋になると大量の落ち葉が落ちてきます。

隣の人家にも落ちているに違いありません。

でも、周りの人々はだまって掃除しておられます。迷惑をかけて申し訳ないと思っていますが、神社の社叢とは必要なものであり、伐採してしまうことはできないのです。ご理解いただき、迷惑をおかけしながら、尊厳を保っていることになります。

正月に甘酒を作りますが、せめてもの気持ちとして、ご近所にお配りもしています。

神社の社叢には必ずと言ってよいほど杉の大木があります。

これは、神様のご降臨の時、神様が見えやすいようにするためだそうです。神様は杉がお好きらしいのです。

杉の木はまだよいのですが、自然林としての落葉樹が中心の社叢ですので落ち葉の清掃は本当に大変です。

寺院ではその清掃作業そのものが修行のひとつであると位置づけられているのだと聞いたこともあります。

この藤井神社の場合、近くの方ですが、まことに有りがたい方がおられ、落ち葉時には朝暗いうちから掃除をしてくださる方がいらっしゃるのです。

もう、ずいぶんのお年ですので申し訳なく思ったり、ありがたく思ったりしていますが、けがでもされたら大変ですので心配もしています。

鎮守の森、社叢は確かに神様の尊厳と荘厳さをかもしだし、ご参拝いただく方々の心に落ち着きや和みを生み出してくれていると思います。

大切な役割を持っているわけです。


鎮守の森

鎮守の森はなぜ作られたのでしょうか。

その起源は日本人の自然崇拝にあるようです。例えば大きな岩や高い山などには神が宿ると信じられたことです。

山そのものが神であり、神社の無いところもあります。神社に神が居られるのではなく神社は神を敬うために人々の集う場所と考えられることもあります。

しかし一般的な神社というのは、村を守ってくださる、すなわち鎮守してくださる神様のおられるところとされています。

村の人々は、この神様のために森を育て守っているわけです。

高く大きな木々があってこそ神様が村を守りに来てくださるとの考えです。

しかし昨今ではそういう神の存在についての信仰心は衰退してきています。

神様が守ってくださるわけでもなく、社叢の木々を伐採しても別にバチが当たるわけでもないと考えられる人々が多くなっています。

そんな今日この頃ですが、私たちの藤井神社はどのような存在なのでしょうか。考えさせられる時もあります。

信仰心の無い人が多くなってきたとはいえ、正月には大変多くの人々に初詣に来ていただいております。手を合わせ、頭を垂れてお祈りをされます。

例大祭の時も同様ですし、日常の普通の時間にお参りされる方もけっこうおられます。

神道として信仰するというようなたいそうなことは考えなくてよいのです。

一年に一度か二度、神様のことを思い出していただくだけでも良いのではないでしょうか。

神社の壁にボールをぶつけたり、お賽銭を盗んだりしてはいけません。

神様のバチが当たるからと言うのではなく、人としてやってはならないこととして認識してもらうことが必要なのではないでしょうか。

鎮守の森、社叢も大切に手入れをして育てていかなくてはなりません。

なぜそれが必要なのかと言う理屈でなく、人の道としての基本であると思うからです。