藤井神社(TOP)>藤井神社のいわれ藤井神社の名称や歴史について境内にある井戸の跡 いわれの説明書き なぜ藤井神社と言われるか境内には井戸のようなものがあります。普段蓋がしてあり中は見えませんが、整備の時に見てみますと、残念ながら深い井戸はなく、水もありません。昔の井戸というか泉の跡なのです。 その横には写真のような説明書きが設けてあります。 この説明書きには大略次のようなことが記されており、藤井神社のいわれが分かります。 ここ、知多の里には三つの泉があったが、その中でも藤井と言われる泉はこんこんと湧き出る水が豊かであった。 その泉をなぜ人々は「藤井」と呼んだかといえば、その泉の近くにとても大きな藤の木があったので、そう呼ばれるようになったのです。 その泉付近を「藤井の里」と呼んでいました。 そのため、ここにできた神社は、「藤井大明神」と言われたのです。 現在の、この「藤井神社」という社名は、藤と泉、藤井大明神が元となっているのです。 この藤井神社の創建は、正確なことはわかりませんが、言い伝えによれば、今から一千三百年前、白鳳時代の末期と言われます。 鎌倉時代、源頼朝が、父の法要を行うために野間大坊へ行く途中、ここに立ち寄り、古くなっていた建物を見て再建に着手したのです。 この付近は「横根」と言われていますが、この横根は鎌倉街道に出るための重要な宿場町として栄えていました。 旅人たちは、この泉で喉を潤し、藤の木の影で涼んだことでしょう。 そうして神様に、道中の無事を心からお祈りしたに違いありません。 いつの時代か、藤の木も枯れ、泉も枯れて往時を偲ぶことはできませんが、泉の里を後代まで知ってもらうため、周りを石で囲んで遺跡として保存しておくものですと記されています。 |